てくてく

日々の作曲に

また絶対音感ネタ

で思い出したのだけど、院の授業で管弦楽法というのがある。この名称の講義自体は3回生で既に作曲学生は受講済みで内容はオーケストラで使われる各楽器についての概論と実際に学生がベートーヴェンシューマンピアノ曲の一部を例えば木管五重奏やオーケストラに編曲し、助手の人にあらかじめ書いたスコアを渡しておいてMIDIによる打ち込み音源を講義の時間にみんなで聴き先生に批判・批評してもらうというもの。院生での管弦楽法はもっと踏み込んでもっと長大なオケ作品を一人一作を担当して楽曲構造とオーケストレーションの中身について分析して発表する。僕はストラヴィンスキーの「春の祭典」をやった。

 

で、その授業の時間は僕を含めた院生が4人と教授の鈴木英明先生なんだけど院の授業というのは結構余った時間に先生を囲んでチャイムが鳴るまで喋ることが多かった。どういう流れでその話になったのかは覚えてないけど、鈴木先生武満徹の話をし始めた。武満はピアノ技術が全然ダメで且つ絶対音感が無かったので作曲する時にたどたどしくピアノをつま弾きながら作曲をしていた、と。なので武満の曲にはテンポの速い曲がほとんど無い。テンポの速い曲を作るには絶対音感の無い武満に速いパッセージなどを弾きこなすだけのピアノ技術がないとそもそも作曲できない、という話だった。実際武満自身がどこかでこんなような話をしてるんだけど、絶対音感が無くてもピアノが下手でもテンポの速い曲は作れるけどなあ??と当時も思ったし今も思う。たとえつま弾きながらでも完全にピアノで音をたどれなくともきちんと瞬間瞬間の音さえ想像できれば(おぼろげであっても)テンポなど関係さなそうだけど…。そうすれば実際現場で初めて奏者に鳴らしてもらった時そんなに「思ってたことと全然違うことになってしまった!」ということは無さそうだと思うが。確かにどんな作曲家でも書いたものを実際に音として聴いた時はその印象は書いていた時とはまた別なのだという話をするけども、これは頭の中で想像する音を内的な耳(心の耳)で聴く体験と実際の耳で聴く体験(空気の振動として鼓膜に届く音波を拾う体験)とは聴取体験の質そのものが違うという意味なのでまた話が別だ。

あの武満の話なわけだけど聞いた時は結構意外だった。まぁそこは作家それぞれか、というふうに思うしかないのか。

 

ということを思い出したところで今日はここまで。