てくてく

日々の作曲に

些細な記憶

大阪音大の作曲学生(現代音楽世界では普通に使われる作曲学生という言葉だけど、よく考えたら実に変な言葉だ。作曲を学ぶ生徒という意味だと思われる。作曲家を志す人、と言い換えてもいいのかもしれない)だった時、あそこの学校ではカリキュラムとして大体が1〜2回生で非常にクラシカルなスタイルでの作曲を学ぶ。ベートーヴェンからブラームスショパンあたり。そのあと学生の進度にもよるけどいきなり「君の思うように好きに書きたまえ」となる。あとの時代の楽曲分析などは君が好きにやり、好きに作曲したまえということだ。僕の場合がそうで、突然そんなこと言われてもと狼狽する学生もいるだろうが僕は「よっしゃー。ようやく来たか!」と思った。早く調性を逸脱したスタイルで書きたかったので待ってましたとばかりに後期スクリャービンスタイルでピアノソナタを書いた。当然その時点で調性を逸脱することに抵抗を覚える学生もいて、卒業まで結局クラシカルなスタイルを通す人もいる。個人的にはそういう人は一体何しにこの学校に来たんだろうと思っていたが。

 

それはそれとして、大阪音大の学生の多くが現代音楽をあまり聴かないので純粋なコンテンポラリー音楽が何を指すのかわからないらしく、調性が崩れた音楽=現代音楽、と解釈している者が多く(今もそうなのかどうか知らないが)、よく「先輩、次の作品発表会の曲書くんですか?」「書くよ」「現代ですか?(作品スタイルは現代音楽か?の意)」「そうだよ」というヘンチクリン極まりない会話がよく聞かれた。現代に生きていて曲を書けばスタイルの変遷の勉強の一環として過去の時代のスタイルをそのまま使って書くということを除けば作曲は必然的に現代性を帯びて当然なのだと思うのだが。複雑な気持ちにさせらる会話だけど実際僕もこういう質問をよくされた。この会話が成立してしまうとメシアンでさえ現代音楽になってしまう。そう解釈したければそれは別に構わないのだけど。

 

書いていてふとそんなことを思い出した。