てくてく

日々の作曲に

『音楽の遺骨』以来久々に来た「これ何か壁超えたんじゃない?」感について

春先にアイスランドをイメージして勝手に組曲を作ろうと思い立ってピアノ素材を主体に電子音と共に音を組み立てようとして作業してたんだけど、どうもうまくいかない。ちょっとここは全然別のことをしようと思い、HDD内にある過去の音データをぼんやりと聴いていたら、いつ作ったのか全く思い出せないシンセの音だけの1トラックの1分ほどの音のデータが出てきた。聴いてるとなんだか面白い。あんまり音の素材を聴いて何か思いつくとか、そこから作曲するという行程は取らないので「お、これなんだか想像をかき立てられるな」というパターンは珍しい。とにかくこれで何か作ろうと軽い気持ちで始めてみた。その1分ほどの音のデータからほとんど自動的に何分かの曲の進行が見えた。なので最初の方は迷いなくその音のデータから断片を切り出し処理し、シーケンスを組み立てていった。

 

迷いなくといっても途中「こっちのほうがいいかな、いや、こっちかな」みたいな、耳を澄まして正解を待つということは何度もあったけど、「このあとどうしていいかさっぱりわからん」ということはなかった。2〜3秒分作るのに半日かかるのはザラ。少し進めては最初から聴き、また少し進めては最初から聴くという作業を繰り返した。「頭から聴いて次なる音に耳を澄ます」ってのは近藤譲の作曲法だけど、一応ぼんやりと青写真があるという意味では近藤譲のそれとは違う。

 

そして2分半まで出来たところで気づいたことがあった。「この曲、何度聴いても2分半のところまでに一体どういうことが起きていたかよく覚えられないな」と。つまり音楽的時間の経過として一体どんなイベントが継起してきたか、その結果感じる物理的時間さえも一体どのくらい経ったのかよくわからない感じがした。いや、もっときちんと言うと音楽的イベントの継起の仕方が実時間の感じ方に奇妙な作用をもたらしてる感じが凄くする、ということか。そのこと自体は音楽というものはそういうものだという言い方をすれば全くその通りなのだけど、瞬間瞬間の音楽的イベントはそれぞれに音楽的固有の時間を持っており、その連なり方がこの曲では恐らく奇妙な時間感覚を作っているのではないか、と思うのだ。「あれ、オレ今ここで何してんだろ?(後ろを振り返って)この道を歩いてきたとは思うんだけど…。よく覚えてないけどなんだか楽しい感じがする」。その奇妙な時間感覚が僕にはとても面白く感じた。

 

と、話はまだ続くけど今夜はここまで。