てくてく

日々の作曲に

高校の時の

最近、facebookで高校3年の時に仲の良かった女の子から友達申請が来てそのあとメッセージが届いた。

 

高校3年の時にはもう大阪音大の作曲学科受験のため、和声課題にひたすら取り組む一方で副科ピアノと呼ばれる試験も同時あるので一応ピアノの練習もきちんとしておかねばならなかった。なので昼休みにほとんどの学生は弁当を食べたり学食に行ったりするんだけど僕は一人音楽室に行ってピアノを弾いてることが時々あった。

 

その音楽室は吹奏楽部全員が集まって練習できる広さがあり、中から鍵もかけられるとあって他の音大やら芸大志望の学生が他人に邪魔されたくないので時々鍵をかけて練習したりしていた。

 

その日の昼休み、いつものように音楽室のドアを開けようとしたら鍵がかかっていたのでガチャガチャやってたら中から女の子が開けてくれた。

話してみるとクラスは違うけど、どうやら同志社女子の音楽部を声楽で受験するため鍵をかけて練習していたという。その頃の僕はクラスの女子ともほどんど話さない、よくどこのクラスにでもいる学級肌の学生だったけど志望校は違うけど音楽で受験する同学年の子ということで話をしようと思ったのかもしれない。

 

高校1年の時に坂本龍一の「美貌の青空」にガツン!とやられて以来完全に坂本かぶれの、その頃としては音楽の話が誰とも合わないかなり孤独な趣味だったのだけど、その女の子はもっとさらにYMO坂本龍一のオタクだった。完全に仲良くなったのでYMOのビデオなどよく借りた。「ライディーン」の誕生秘話とかそういった話をよく聞かせてくれた。奇妙なくらい根の明るい子で発言も面白かった。

 

大学2年くらいまでちょくちょく電話で話したりもしたけどそのあとは全く連絡を取ることもなく今に至っていたのでfacebook経由で連絡が来て少々びっくりした。

みんな過去の友人やらを探したりするんだな。数ヶ月前も中学で仲が良かった友人から連絡が来た。

 

その女の子は是非会って話そうというので今月末あたりに会うことに。

今も声楽を続けていて現代音楽にも少し詳しくなっているようだ。是非僕と共演したいみたいなことを言っていた。

 

ライブの準備の合間にそんなことがあって準備の合間に息抜きのためにダラダラと書いてしまった。

あ、ちゃんと告知とかもつぶやかないと…。

pre-nyt LIVE 2/11-2/12

2/11が名古屋、2/12が東京。それぞれ(行ったことないけど)こじんまりしたカフェスペースのよう。そこにアップライトピアノがあるらしく、東京のほうでは是非内部奏法の曲もやってほしいとのこと。そこのオーナーさんがどうせならピアノを壊すぐらいのことを是非やってほしい、みたいなことをおっしゃってるらしい。アップライトで内部奏法なんてやったことないからどんくらいのことが出来るかわからないけど是非やろう。学生の時は練習室のピアノの弦に異物を挟みまくったり直接指でミュートなんて当たり前のようにやっていたもんだが(ちなみに練習室のピアノとはいえ許可なくそんなことはやってはいけなかったはず。もちろんどうせ許可など下りなかっただろうけど。そこをお構いなしにやるのが学生)。

 

今井飛鳥から送られてきた曲は作詞作曲今井飛鳥。シンプルだけど面白い音楽を、というリクエストで届いた曲はまず詩が非常にミニマルかつ韻をふんだもので、言葉遊びに満ちていて遊び心に溢れている。よくこんなことが思いつくなあと関心する。

 

音のほうはさらにシンプルなのだけど、曲の中頃あたりでハっとする変化が起こる。これは例えるなら甲斐説宗の「フルートのための音楽」のような変容が途中で起こるのだけど、よく聴いて(観察して)いないとさらっと流れてしまう場所でもある。もしかしたらその変化をあとから説明したとしても「え、だからなに?」みたいにしか捉えられない人のほうが多いかもしれない。僕だったら曲のかなり早めの段階で色々と操作を加えてしまうだろうところをじっと我慢してその変化を起こさないように作られている。

 

アレンジは僕の曲も今井作品も全て僕がアレンジする。pre-nytカラーに統一するようい仕上げなくては。

 

あー、早く打ち込みを終わらせないと。

ところで「打ち込み」って言葉、ずいぶんと古めかしい響きだな…。

80年代終わりぐらいから世間に浸透した言葉だからだろうか。

今でもこういった作業は打ち込みというのかな。

今年は、

2016年、2月に今井飛鳥と僕のユニットであるpre-nytで名古屋と東京でLIVEに出ることに。まだ全然曲の数が足らないのでこれから作るところ。インストの曲もあるけど基本は歌モノを作る。

 

少し前にpre-nytの第一弾の曲としてインストものを作ったけど僕自身のソロの曲と比較して違うところがそりゃ沢山あるんだけど作ってる時のトラック数(パート数)が全然違うなあと。僕の曲の場合はどうしてもトラック数が増える。全てのトラックの音が同時に鳴るわけじゃないけど(最近は曲の中で1回しか出てこない素材がある場合はその素材用にトラックを用意せずに他のトラックの中に入れて処理するようにしてできるだけトラック数が増えないように煩雑にならないように努めてる)扱う音の種類が多いので仕方ない。それに比べてpre-nytの場合は基本的にはハーモニー構造やメロディー構造ありきで作られてるので音色の数は限られる。MIDIで作るという違いが大きいからかな。

 

アップライトのピアノで内部奏法のある曲を、というリクエストが含まれてるのでどうしようかと思案。アップライトの内部奏法なんてやったことないからどうしようか。

「kitschでcatchyで華奢な夜」後

LIVE終了。次回は今井飛鳥とのユニット、pre-nytのライヴ出演が2月頃東京で。

 

時間をかけて尚かつ〆切があると集中できてクオリティがあがるみたい、いや、あがるというよりある程度のクオリティに達するのか。そんな感想を持った。

僕のソロの曲は作ってたけど途中でやめて寝かせてあったものを2つまず繋げて3つ目の曲は最近出来た曲でそれをさらに繋げ、最後のエンディングだけ別の曲の終わりの部分をちょん切って終わり感を出した。

 

前半の2つのタイプの異なる曲(1つは紙の擦れる音を背景にしたピアノの曲。もう1つはガチャンというドアを開けた音と共に始まる5度の跳躍の音に徐々にハーモニーが付加されていくピアノを主体にファンク・ミュージックからサンプリングしたカッティングギター音が不規則に左右に鳴り、各小セクションの前半ではグリッド通りにビートが展開されるが後半ではグリッドを無視した揺れたビートが背景となる)は実はもともとは同じアイディアの曲で、2つ目の曲を先に作っていたんだけど納得いかなくてしばらく寝かせておいてその間に同じアイディアで別の角度からリアライズしてみようと試みたのが1つ目。元々同じアイディアだったものが角度を変えると全く違ったものとして現れる。それが今の僕の耳で聴くとちょっと面白かったので是非使おうと手を入れた。

 

ちなみに1つ目の曲(紙の擦れる音を背景にしたピアノ曲)は同じような音形のテーマが延々繰り返されるが聴くとわかるように少しずつ変化している。音程だけでなくリズムも。一聴するとランダムで即興的なリズム変化に聴こえるが緻密に各音値をコントロールしている。即興的に聴こえるようにプログラムしたと言うほうが的確か。実際、人間のランダムさというのはその人の癖とか無意識のビート感、テンポ感、音と音の隙間、そういったものが勝手に出てしまい結果的にはランダムっぽくなく聴こえないことが多い。即興にはどうしてもその人の習慣が出てしまう。それでは面白くない。なので細かく拍節構造を設定し、リズム構造を定義した。だから即興とは本当のところランダム性はあまり無い。習慣から瞬間的に抜け出ることは難しい。即興中に考えてしまうと尚更だと思う。1時間即興をやれば瞬間的に「おっ?なんだ今のは??」というハっとする部分が何度か現れることもあるがいつでもそういうわけにはいかない。

 

この同じようだけど少しずつ変化している、というのはフェルドマンを思わせる。

続き

と、ここまで書いて大事なことに気づいた。

 

「この曲、何度聴いても2分半のところまでに一体どういうことが起きていたかよく覚えられないな」感は3.11の直後に作った「untitled」という曲でなんとなく気づいたことだった。そして前回トピックにあげた今作っている曲でより明確に意識に上ってきた。

 

「untitled」は短い曲でピアノの一筆書きのような曲。ほとんど誰にも聴かせたことの無い曲。ピアノでまず全部を録音して曲の前半部分を分解し、いろいろな要素を付加した。後半はシンセのドローンを背景にピアノが前半のテーマをオクターブ上で途切れずにきちんと再現する。最後はコラール風の合唱の一部と教会で人々が「アーメン」と言う音声素材が一緒になって終わる。ちなみにこの「アーメン」と言ってる音声素材は環境音サンプル集から取ってきたもので別に「アーメン」という言葉が欲しかったわけでもなんでもなくこれもあとから「あれ、よく聞くとアーメンとか言ってんな」と気づいた。

この曲も短い時間の間に色々な質の音楽的時間が微妙なタイミングで構築されているせいなのか、後半部分が始まる直前の落ちつくところまでに奇妙な時間感覚に包まれる。

 

 この2つに共通しているのはまず繰り返し(反復)がほとんど、というか全くといっていいほど無いこと。「untiteled」に関しては後半部分で曲のモチーフというかテーマがそのまんま再現(実際は前半部分では本来のこのテーマはあらかじめ分解されており、そもそもこれらのぶった切られているピアノ素材たちがひとつの繋がりを持った流れであることが認識されにくくなっている。それを後半ではそれらをつなぎ合わさせた形、つまり本来の姿として出て来るわけだが聴取する側としてはそれを再現であると認識できるかどうかは不明。たぶんそのようには聴こえないかもしれない)されるので反復と言えるが、それまでの前半部分が重要。2曲はサンプル単位での再出現する素材はたくさんあるが素材同士の組み合わせがほとんどの場合で違っており、秒単位で印象が少しずつ変わる。また似たような素材の組み合わせが一定間隔で出て来るところもあるが、よく聴くとその間隔は少しずつ変化している(少しずつではあるがこれは聴取可能な変化)。

 

素材同士の組み合わさり方と組み合わさった素材達の連結のタイミング。そして反復は無い。これらのことが恐らく一体どういうことが起きていたかよく覚えられないな感に重要な役割を果たしているんじゃないかと思うんだけど、これだけではない気がする。

 

うーん、なんだろう??

 

 

『音楽の遺骨』以来久々に来た「これ何か壁超えたんじゃない?」感について

春先にアイスランドをイメージして勝手に組曲を作ろうと思い立ってピアノ素材を主体に電子音と共に音を組み立てようとして作業してたんだけど、どうもうまくいかない。ちょっとここは全然別のことをしようと思い、HDD内にある過去の音データをぼんやりと聴いていたら、いつ作ったのか全く思い出せないシンセの音だけの1トラックの1分ほどの音のデータが出てきた。聴いてるとなんだか面白い。あんまり音の素材を聴いて何か思いつくとか、そこから作曲するという行程は取らないので「お、これなんだか想像をかき立てられるな」というパターンは珍しい。とにかくこれで何か作ろうと軽い気持ちで始めてみた。その1分ほどの音のデータからほとんど自動的に何分かの曲の進行が見えた。なので最初の方は迷いなくその音のデータから断片を切り出し処理し、シーケンスを組み立てていった。

 

迷いなくといっても途中「こっちのほうがいいかな、いや、こっちかな」みたいな、耳を澄まして正解を待つということは何度もあったけど、「このあとどうしていいかさっぱりわからん」ということはなかった。2〜3秒分作るのに半日かかるのはザラ。少し進めては最初から聴き、また少し進めては最初から聴くという作業を繰り返した。「頭から聴いて次なる音に耳を澄ます」ってのは近藤譲の作曲法だけど、一応ぼんやりと青写真があるという意味では近藤譲のそれとは違う。

 

そして2分半まで出来たところで気づいたことがあった。「この曲、何度聴いても2分半のところまでに一体どういうことが起きていたかよく覚えられないな」と。つまり音楽的時間の経過として一体どんなイベントが継起してきたか、その結果感じる物理的時間さえも一体どのくらい経ったのかよくわからない感じがした。いや、もっときちんと言うと音楽的イベントの継起の仕方が実時間の感じ方に奇妙な作用をもたらしてる感じが凄くする、ということか。そのこと自体は音楽というものはそういうものだという言い方をすれば全くその通りなのだけど、瞬間瞬間の音楽的イベントはそれぞれに音楽的固有の時間を持っており、その連なり方がこの曲では恐らく奇妙な時間感覚を作っているのではないか、と思うのだ。「あれ、オレ今ここで何してんだろ?(後ろを振り返って)この道を歩いてきたとは思うんだけど…。よく覚えてないけどなんだか楽しい感じがする」。その奇妙な時間感覚が僕にはとても面白く感じた。

 

と、話はまだ続くけど今夜はここまで。